大人の遠足

 

今回ブログに初めて挑戦するプログレが大好きなフロイドじじいです。

 

「奈良 今井町ぶらり旅」

私にとっては二度目の訪問になる「奈良県橿原市今井町」のぶらり旅。前回は家族三人で訪れた歴史深い町。今回は高校時代からの親友と二人で、ぶらぶらと歩いてきました。

今井まちなみセンター(華甍)西隣にあるまちなみ広場駐車場に車を止め、昼食をはさん で約3時間半ぐらいの旅でした。

案内にもある赤い「蘇武橋」を渡れば今井町に入ると書かれていたこの橋をどうしても見たくて、前日から気持ちがわくわくしていました。

f:id:pk_floyd:20170726111012j:plain一体どのような橋なのか、ひょっとしたら大学時代に訪れたことのある高知県の「はりまや橋」のような、渡った感じが全くしない失望感を与える類いの橋かもしれないなどと、色々詮索をしながらとても不安でした。しかし、見た瞬間「おお、なるほどいけるなあ」と安堵した感じで少し安心しました。今井町の歴史に恥じない景観であってほしいと、思っていした。それに「蘇我橋」の「蘇」の文字からして飛鳥時代勢力を持っていた蘇我氏一族の誰かが架けた橋かもしれない、などと勝手に解釈をしていました。(高校時代は歴史が嫌いで、成績が特に悪かった【笑】)歴史的に由緒あるかもしれないこの橋をネットで検索してみると、飛鳥川に架かるこの蘇武橋は聖徳太子太子道を通って、斑鳩宮から橘宮へ向かう途中に渡った橋として有名だということでした。
ここで蘇我氏との関連性が出てきたのかな?(ど素人考え)この橋を渡ると巨大エノキが植わっていました。案内には榎の高が14m、樹齢は推定420年と書かれています。逆算すると西暦1597年で、なんと安土桃山時代から生き続けている化け物のような巨木。素晴らしい生命力ですね。「今井町の歴史」をずっと見守もってきている生き神様かもしれない。

 豊臣秀吉吉野桜の花見の途中に訪れたとされる今井町。「大和の金は今井に七分」と言われるほど繁栄していた安土桃山から江戸にかけての時空を見てきたこの巨木は、とても見応えがありました。
 先ず、駐車場の隣にある今井まちなみ交流センター前で、

f:id:pk_floyd:20170726111133j:plain記念撮影をしようとカメラをセットしかけたらボランテイアでもない変なオジサン(私達も同類です)に捉まり大変な20分でした。(時間は計っていなかったが、そこは適当に【笑】)この町にはゼネコンの設計士さん達が一度は必ず訪れる、というところからの説明で始まり(実はこのオジサンもゼネコンで建築設計をしていた、とのことでした)、今井の重要文化財には筋交いは一切使われていない、何故かわかりますか?。なあ~んて。また、柱は全て真っ直ぐに建っていない。或いは、横木に太い材木を使っていたり、壁が特に分厚い為、堅牢な建物が今日まで持ち堪えている。このような話しが延々と続きました。私にはどうでも良いような長たらしい説明で、なんとなく不愉快な感じがして、早く言えばオジサンの自慢話しのようにも思えてきました。早く終わってくれないかなあ?。これが正直な気持ちでした。
 さて、昼食の時間がきたのでどこで食べようか、と親友に尋ねられたので、思わずどっきりしました。おいおい、ちょっと待ってよ。(一瞬、しまった!)

奈良には旨いものなし、とかよく言われていましたよね。この言葉は大文豪・志賀直哉の随筆に書かれていたそうです。今から四十数年前だったか、NHKの大河ドラマ春の坂道」で一時期柳生の里が観光ブームになり、私も訪れたことがありました。その時に食した昼食が不味くて、しかも値段が高くて散々な目にあいました。そうした柳生の里の悪評・不評が全国的に飛び交って、奈良県のイメージダウンに繋がったような記憶が今でも残っています。
結局お昼は近くにあるtamonさんでいただきました。

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このお店はとても感じの良さそうな可愛らしいフェで、店内には心地よいジャズが流れていました。私達以外に地元の方だろうと思われる悠々自適そうで少しお洒落な(私達二人とは偉い違い)オジ様4、5人が、楽しそうに会話をしながら食事をなされていました。その中のお一人が私たちに気軽に話してこられて、地元の宣伝をなさって下さいました。

今井の人たちは、この町をとても愛されているようにも思えてきました。しかし、tamonさんとはかわった店名ですね。お店と名前が全くマッチしていないような気がするけどね。和食の方がお似合いかも。(オジサン二人が注文したメニューは、私がドリアセットで親友がプレートランチセットでした。奈良には旨いものあり!。)
 最初、今井町に着いた時に公設駐車場を探すため細い道路をうろうろしていたら、ご高齢の方がおられたので駐車場の場所を尋ねたら、色々とご丁寧に説明なされて、なるほどこの町が好きなんだな、なんて思ったりもしました。(ただ単に暇つぶしに話し相手になられたのかも?)
 しかし、この地区に入ってからは、なんとなく生活実感を体感出来なかったような気がしました。観光の視点からすれば、この町はとても素晴らしい。国・県・市といった各自治体から援助を受けて、町並みを保全したくなると思う。しかし、保全対象になっている家屋は、この地区の中で果たしてどれだけの割合で占められているのだろうか。「日本の旅」の資料では約500棟が昔からの建築であり、重要文化財8棟、県文化財2棟、市文化財4棟との説明があります。現在も一般の方々が生活されている。しかし現実的に考えてみると、町並みの中に入れば道路幅は狭く、軽自動車さえ通行出来ない所が沢山ありそうに思えました。それから余計なことのようですが、この地区で若い世代が何世帯ほど生活されているのか、知りたくなりました。と言うのも、昼食をいただいている時に気軽に話しをして下さった上品そうなオジさんの言葉。「この地区には空き家がけっこうありますよ。中には別の場所で生活をしながら、ここにある家屋を守っている」などと。確かに快適な今風の生活スタイルを取り入れるとなれば、かなりの制約がかかってくると思われます。実際歩きながら見学していると、不動産売買の看板を見かけました。(かなり売りづらいかな?)
 さて、あってはならないことですが、この地区で火災が発生した場合は、果たしてどうなるのでしょう。瞬く間に類焼し、町全体が消失してしまうのではないでしょうか。歩きながら特に感じたことは、居住されている方々の中で高齢者が多そうなので、消火活動などが円滑に出来るのか、などと不安な気持ちになりました。これだけ大切な文化財が残っている中で、消防車も入れないこの現状は如何に。糸魚川の大惨事が思い浮かばれてなりません。

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上の画像を見ていただくと一目瞭然かと思われますが、通りが整然としていて、ゴミ一つ落ちていないように感じられました。平日のお昼前でしたが、なんとなく静かすぎて、少し不気味な気がしました。

さて、紙半豊田記念館前にさしかかった時私たちと同年代らしき女性がしきりに入館(有料)を勧めてきましたがあまりにもしつかったので入るのを諦めました。(もったいない【笑】)

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称念寺(上画像)が当近畿地方一向宗の布教をすすめる為の拠点の一つであった、ということは全く知りませんでした。江戸時代には既に自治権が与えられていたらしいです。高校の日本史の授業では、一向一揆が北陸を中心に勃発していた、と教わった記憶はかすかに今でも残っています。(日本史は嫌いだった)
門の右側に建築現場ではお馴染みの工事用柵が置かれているのには愕然としました。せめて木製の柵でも設置すれば良かったのに、などと思います。とても残念でした。
 さてここで、私なりにお復習いをしす今井町が世界的に注目を浴びる町になった理由は?。中世戦国時代の町並みが残っている。(但し中世戦国は、捉え方によっては鎌倉時代から室町末期になりますが、ここでは安土桃山から江戸時代までにしておきす。)
その数は東西600m、南北310mの中に全建物約1500棟のうち、約500棟が伝統構造物だということで、この数字だけでも凄いと思います。次にこの町の成り立ちについては、鎌倉時代から奈良を治めていた興福寺が、徐々に広がり始めた一向宗浄土真宗)に対し執拗な弾圧を始めました。しかし、時代の流れの中で興福寺の影響が下がってくると、本願寺の今井兵部は称念寺(当初は一向宗を布教するための念仏道場)を建立し農民を門徒化したり、浪人や商人を集めて町を形成していった。(武装化された寺内町)ここで凄いと感じたことは、外敵(野武士・盗賊・他大名・他宗派)から町を守るため、町の回りに濠や土居を築き武装化し、門徒を守っていったとうことです。
織田信長の時代になると、宗教弾圧が激しくなり一向宗の布教拠点の一つでもある今井町も攻撃され、結果的には明智光秀や大阪堺の商人達の取り計らいで武装蜂起をし、降伏したらしいです。兵部はその後信長・秀吉・家康に庇護され、今井町商業都市として発展していき、「海の堺、陸の今井」と呼ばれるほど繁栄していった。素晴らしい人物ですね。

f:id:pk_floyd:20170726111005j:plain上画像は河合家住宅ですが、現在でも造り酒屋として営業されてます。なとなくタイ                 ムスリッしたようです。この日は時間の都合上、少しだけしか散策出来なかったのが残念でした。中橋家・上田家・音村家・旧米谷家・高木家など見学する箇所は沢山ありました。

 さて今回、メインでもある今西家を見学することにしました。親友にタブレットで検索してもらうと事前予約が必要だということでしたが、簡単に見学させていただきました。(見学料400円)

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当時この場所は今西正盛が裁判を行うために改築した陣屋だった ということです。その後、信長の本陣となり土間をお白州にして裁判が行われた陣屋らしいです。まるで東映の時代劇を見ているような気がしました。

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今西家にはいぶし牢(上画像ではしごを上がった所)かあり比較的軽い犯罪(お裁き)に対し自白させるため、ここに閉じ込め煙攻めさせたらしいです。あまりにも煙くてほとんどの罪人が白状した、ということです。左右一ケ所(男女区別)ずつあります。
 今回とんでもないことに、今西家の牢屋の説明を聞き逃し、後悔しながら帰宅しました。どうしても己に納得出来ず、知り合いの設計士さんに相談したら、なんと2時間後ぐらいに欲しかった資料をコピーして来てくださいました。
 「ぶらり旅」を編集しながらこの画像を見ていたら、今井まちなみ交流センター前でお出会いした、元設計士さん(らしき?)の説明が浮かんできました。左の画像を見る限り筋交いは全く使われていません。なるほど納得です。

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上画像の中で少し色の薄い大きく見えますが、これは昭和に入ってから取り替えられた                とのことでした。ただ材木の乾燥時間が短かったので、ひび割れしてきたそうです。
 今回はとても楽しい「奈良県橿原市今井町ぶらり旅」でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 


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                称念寺(上画                像)が当時の                近畿地方で一                向宗の布教を                すすめる為の                拠点の一つで                あった、とい                うことは全く                知りませんで                した。江戸時                代には既に自                治権が与えられていたらしいです。高校の日本史の授業では、一向一揆が北陸を中心に勃発していた、と教わった記憶はかすかに今でも残っています。(日本史は嫌いだった)
門の右側に建築現場ではお馴染みの工事用柵が置